ささやかな幸せに満足してはいけない(福沢諭吉著)

 どういうことか、一例を挙げましょう。

 男子が大人になって、工場で働いたり、商売をはじめたり、または役所に勤めたりすることで、ようやく家族や仲間の世話にならずに生きていけるようになったとします。

 それなりに衣食は足りているし、他人に借金を返さないようなこともない。

 賃貸住宅でなければ、自分で簡単な家を建て、家具は完全にはそろっていないけれど奥さんだけはほしいと言って、望みどおりに若い女と結婚しました。

 健康で無駄遣いすることがなければ、子供がたくさん生まれたとしても、普通の教育を受けさせるのならばそれほどお金はいりません。

 万が一の病気や事故に備えて、30円から50円のお金はすぐに出せるようにしていて、細く長く、遠い将来のことを考えつつ、とにかく一軒の家を守っている。

 こういう人は、自分のことを「独立して生計を立てている」と誇りに思うでしょうし、世の中も彼のことを「(どく)(りつ)()()の人物だ」と言って、必要以上の働きをしている功績のある人物のように言うでしょう。

 ところが、それは大いなる間違いです。

 この人は、ただ「アリ並み」のことをしているだけなのです。

 生涯に成しとげることは、アリと変わりありません。衣食をまかない、家庭を作るためには、額に汗し、心労を抱えることもあるでしょう。その点では、先人たちの教えに対して、恥ずべきことはないでしょう。

 しかし、彼の成しとげたことを見て「万物霊長である人間として、人生の目的を果たした」とは言えません。

 このように、一人ひとりが自分の衣食住をまかない、それで満足するとすれば、人間の一生は、ただ生まれて死んでいくだけです。死ぬときの社会は、生まれたときの社会とまったく変わりません。

 そんなふうにして、子供や孫へ引き継いでいくなら、何百代を経てもある村の状態は昔と同じです。世の中に工場を造る人はおらず、船も造られず、橋も架からない。

 個人のことと家族のこと以外は、すべて自然状態のままであって、その土地に人間が暮らしてきた(こん)(せき)は何も残らないでしょう、

 ある西洋人は言いました。

人間がみんな現状のささやかな幸せの中で満足していたら、今日の世界は、天地創造のころと何も変わっていないだろう

 そのとおりです。当然ながら、満足にも二通りがあって、その違いを見誤ってはなりません。

 一を手に入れた瞬間、二が欲しくなり、二を手に入れれば、さらに欲しくなって飽きることをしらないのは「野心」というべきでしょう。しかし、自分自身の活動を広げ、大きな仕事をしていこうとしないのは「(しゅん)()」と言えます。

引用文献『学問のすすめ』九編(福沢諭吉著)現代語訳 奥野宣之(致知出版) 

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