学問によって政府と対等になる(福沢諭吉著)

 ここまでは、百姓や町人の見方になって、「言いたいことはどんどん言え」という(ろん)()でした。しかし、また一方から見れば、別のことも言えるのです。

 たいていの人を取り扱うには、その相手の人物によって法律の適用のさじ加減を考えなくてはならないこともあります。元はと言えば、人民と政府は同じものでした。ただ、その果たす役割を区別し、政府は人民の代表となって法を作って運用するから、人民は、「必ずこの法を守ることにしよう」と固く約束したのです。

 たとえばいま、日本の国で明治の年号を使っている人は、「いまの政府の法に必ず従います」と契約を結んだ人民です。だから、いったん国法として決まったことは、たとえひとりの人間にとってデメリットがあっても、その法律が変わらない限り、約束は動かせません。気を遣って(つつし)み深く守らないといけないわけです。

 ところが、無学で字が読めず、理非の「理」の字も知らないような人がいます。できることといえば、飲む食う、寝て起きるだけ。そんな無学のくせに欲は深くて、目の前の人を(だま)し、たくみに政府の法を逃れ、国の法律がどれだけ大事かわかっていない。子供ばかりはよく産むのだけれど、子供の教育については何も考えていない。いわゆる恥も法も知らない馬鹿者であって、この子孫が増えても国の利益にもならず、かえって害になることが多いものです。

 このような馬鹿者を扱うのに、道理を説いてはなりません。不本意ですが力をもって脅し、大きな被害になるのを防ぐより手立てがないわけです。

 これが世界に(ぼう)(せい)がある理由です。そういう政府は、わが国の江戸幕府だけではなく、アジア諸国も昔からずっとあります。そう考えてみれば、ある国に暴政がある理由は、暴君や悪い役人のせいだけではありません。実際は人民が無知であることによって自ら招いた災いなのです。

 他人にけしかけられて暗殺を企てる者がいれば、新しい法律を誤解して反乱を起こす者がいる。「強く訴えているのだ」と言いながら、金持ちの家を(おそ)って酒を飲み、カネを盗む者がいる。そのやり口は、もはや人間の(しょ)(ぎょう)とは思えないほどです。

 このような(ぞく)と化した民をどうすれば統治できるか、釈迦(しゃか)や孔子だって名案はないでしょう。()(こく)な政治を行うしかありません。

 だから言っておきます。もし人民が暴政を避けたいならば、すぐに学問を志し、自分で才徳を高めて、政府と相対して、同意同等の地位に上らねばいけない、と。

 これこそ私の勧めている学問のねらいです。

引用文献『学問のすすめ』二編(福沢諭吉著)現代語訳 奥野宣之(致知出版) 

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