日本国憲法の第二十六条に、「すべて国民は、法律の定めるところにより、(略)その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」とある。
義務教育というのは、子供が教育を受ける義務でなく、親が子供に教育を受けさせる義務ということだが、もう一つ重要なのは、その受けさせる教育というのは、普通教育でないといけないのだ。
これは明治時代に義務教育が始まった時からの基本的な考え方なのだが、その当時は、貧しいからといって、子供に教育を受けさせずに働かせてはいけないというのと同時に、丁稚や大工の見習いをやらせるのも教育だと開き直らせないために、そういう徒弟教育を受けさせても義務教育を受けさせたとはみなさないという意味である。
よく学校は、社会にでて役にたたないことばかりを教えると批判する人は少なくない。ベストセラー作家の曽野綾子氏は、「自分は社会にでて二次方程式を一度も使ったことがない」という意味のことを仰っていた。現実にこの発言の後、曽野氏の夫である故三浦朱門氏が教育課程審議会の会長時代に決まった、いわゆる「ゆとり教育」のカリキュラムでは義務教育から二次方程式の解の公式がはずされたのである。社会にでて役にたたないことは教えないという方向性が実行されたというわけだ。
ただ、社会にでて役立つことばかりを教えるのが徒弟教育の特徴ともいえる。この手の徒弟教育では商人の丁稚であれば読み書き算盤、大工なら道具の使い方の他に測量術など、仕事をする上で役立つことは、むしろ徹底的に教えられた。
しかし、徒弟教育は何がまずいかというと、商業では食べていけなくなったとか、大工が嫌になったという時に転職がしづらいということである。要するに、一生その仕事に縛られることになるわけだ。
一時期、安達某なる子役タレントの母親が、自分の子育て本のパブリシティでラジオ番組に出演していたことがあったが、そこで驚くべき発言があった。
売出し中の時に、義務教育の教師から、「ちゃんと出席させてください」と注意を受けた際に、「貴方は、私の子供の将来に責任がとれるのですか? 彼女は学校で習うことより、ちゃんと社会勉強もしていますし、ここで仕事のチャンスを失ったら、将来のチャンスがなくなります。その責任がちゃんととれるなら学校に行かせますけど」というような主張をしたら、その教師は返答できなかった(と彼女が思ったということだろうが)とのことだった。
職業に貴賎なしというが、子供の将来のために学校に行かせず、徒弟労働をさせたり、農業の手伝いをさせてはいけないように、いくら将来につながるかもしれないからといって、学校に行かせないで役者の仕事をさせるというのは、少なくとも現行の憲法では憲法違反である。将来が心配だからといって、脱税して、貯金をしてはいけないのと同じ、国民の義務逃れである。
学校の教師なら、そのくらいのことはいうべきだろうし、この親が憲法を読んでいないことまでは許されるとしても、こういう憲法違反を自慢話のように公共の電波を使って流すのは、もっと異常なことだ。
ただ、一方で、憲法も時代が変わったのだから改正したほうがいいという考えがあるように、今の普通教育は古いので、実用的にすべきという考え方があって悪いわけではない。憲法は改正されるまでは守らないといけないが、だからといって改正の議論をしてはいけないわけではないのと同じことだ。憲法改正の主張をするならわかるが、違反を容認してはいけないといいたいのだ。
普通教育というのは、社会にでて直接役立つことを目標としたものではない。
役立たないかもしれないが、このくらいの学力がないと社会にでて困る、あるいは日本人として身につけてほしいというレベルの一通りの知識や技能のセットが義務教育のカリキュラムとなっている。
二次方程式を勉強しなくても困ることはないという人がいるように、私も高校生以降は、映画の原作を探すために読むようになるまで小説を読んだことがなかった。それでも、困ったことはないし、文筆業で食べてもいける。しかし、小説を学校で教えるななどという乱暴な議論に与するつもりはない。学校である程度、心情読解などを習ったから、小説を読みたくなった際に、おそらくは習わなかった人よりきちんと読めると思うからだ。
もっと教えなければいけないもの(たとえば情報教育など)がでてきたり、不要になったものを削減したりするという形で、学習指導要領の改訂は、これまでも繰り返されてきた。
ただ、主要5教科(小学校の時は4教科)の枠組みは戦後一貫して変わっていない。
これが妥当かが大きな問題となっているから、「合教科・科目型」「総合型」を導入しようというのだが、私の知る限り、他国の教育改革でも、初等中等教育で科目の枠組みまで変えようという話はほとんどない。ゆとり教育反対の際に、各国の教育カリキュラムを調べたことがあるのだが、一緒に戦っていた学者の人たち(主に数学者)も、「なんやかんやいって、この枠組にもそれなりの妥当性があるのだろう」という風に結論づけていた。何の準備実験もせずに、いきなりこの枠組みを壊すのは、壊されるこの世代の人間全体に人体実験を断行する側面もあるのは間違いない。
引用文献『受験学力』(和田秀樹著 集英社新書)