ポイント① 勉強することで、人は生まれ変わる。
ポイント② 勉強することで、将来の選択肢が広がる。
ポイント③ 勉強することで、自分の考えが持てるようになる。
わかることの喜び
小学校時代に入退院をくり返してきたある女子が、こんな作文をかいてきたことがあります。中学で、私たちがつまずきをかかえている子たちのための補習をくり返していたときの話です。
わたしはこれからもずーっとわからんかって、分かるまで教えてもらっても、それからが分かったら授業がおもしろい授業になったので、これからもわからんところを教えてもらって、ちゃんとした授業をしていきたいと、私は心からお願いしたいと思います。どうかお願いします。
2000字にもおよぶ作文の一部です。どうでしょう。みなさんはこの文章を読んで、どんなことを感じましたか。稚拙ではあっても、「わかる」ことの喜びを精一杯伝えようとしていると思いませんか。
みなさんの生活の多くの部分は学校が占めます。その学校では、教室で先生の話を聞きながら勉強することが多くの時間を占めます。
その先生が話していることをあなたは理解していますか? 自信がないと思ったあなた、わからないことは、実は恥ずかしいことではありません。
みなさんがすごしてきた小学校・中学校のカリキュラムで、9割の子どもが何らかのつまずきをかかえているのです。
でも、先生が何を話しているかわからないということは、とても苦しいことですよね。先生が授業で、話していることがわかるようになれば、学校はもっともっと楽しくなり、日々の生活にも“はり”がでてくるのです。
勉強することで好きなことが見つかる
みなさんの将来の夢は何でしょうか。大人になったら、どんな仕事をしてみたいですか?
まだ、よくわからないというあなたも、英語、数学、国語、理科、社会、その他の教科を勉強していくなかで、自分の好きな教科が生まれていきます。
小学校と中学校の大きな違いの一つに、それぞれの教科の専門の先生が教えるということがあります。小学校では、算数も国語も社会も理科も、学級担任の先生が教えてくれましたね。中学からは違うのです。数学なら数学の、国語なら国語の、教科担任の先生が教えてくれます。
小学校のころと比べて、それだけ専門的になってくるわけです。
そのなかで、自分の興味のあること、好きだと思うことも自然と出てくるはずです。それが、高校、大学と勉強を積み重ねていくなかで、高校で、理科系と文科系に分かれ、そして大学では、もっと細かな専門に分かれて、それが職業へとつながっていくのです。
勉強すればするほど、あなたが何に向いているかがわかってきます。
よい高校、よい大学
お父さん、お母さんがよく言うであろうこの言葉の意味を考えてみましょう。
「よい高校に行って、よい大学に入って、よい会社に入らなくてはだめよ」という小言を聞かされた人もいると思います。
なぜ、このようなことが言われるのでしょうか。入るのが難しいのがよい高校で、誰でも入れるのは悪い高校なのでしょうか。
そうではありません。偏差値が高い、低いからということだけから、その高校や大学の価値を決めるのは間違いです。
しかし、もう少し考えてみましょう。この言葉は、一面の真実も言い当てているのです。
残念ながら、日本の社会はどんどん貧富の差が大きくなっています。安定した職業につき、安定した収入を生涯にわたってえられる人は、どんどん少なくなっています。
みなさんのおじいさん、おばあさんの時代には、日本の経済全体が大きく成長していましたから、職のほうが余っていて、学校を出れば、だいたい誰でも会社に入社することができました。そして会社に入社すれば、定年になるまで会社から給料が払われて、家族を養っていけるということがごく普通だったのです。
ところが、現代は、まず会社に入社することがたいへんで、入社したら入社したで、会社がつぶれるかもしれず、職を失う機会が増えました。
こうした時代に何をもっていれば、生き抜いていけるのでしょう。
それは「教育」なのです。あなたが自分の頭で計画を立て、筋道を立てて考えることができ、そのことを人に伝えることができれば、自然と道は開けてきます。
「教育」がなければ、あなたはレーダーのない船で航海をしているようなもので、自分がいまどこにいるのか、どこに台風があるのか、どこに島があるのかもわからないのです。
そして、自分で考える力があれば、実は会社に入らなくとも、医者、看護師、教師、建築士、作家、映画監督、アナウンサーなどの専門職について、自分で道を切り開いていくこともできます。
勉強することで、だまされなくなる
勉強することで、だまされなくなります。
たとえば、学校でこんな授業をする先生が実際にいます。『水からの伝言』という本を使って授業をするのですが、この本には、水の結晶の写真がたくさん載っています。そして「ばかやろう」という言葉を見せたものと、「ありがとう」という言葉を見せたものは結晶の形が変わってくる、というのです。
これはうそです。ニセ科学というものです。
『水からの伝言』の実験を他人がやると、本に書かれているような結果にはなりません。このことを「再現性がない」と言います。
科学というのは、Aという人がやっても、Bという人がやっても、同じ結果になるということを積み上げてできています。
「波動をおよぼした水は健康にいい」と言って、水を高い値段で売りつける人がいます。「波動」というと、何やら科学的です。しかし、それはただの水で、売りつける人がそう言っているにすぎないのです。
しかし、世の中にはこうしたニセ科学にだまされている人がおおぜいいます。
実際に、学校で理科を勉強していくなかで、あなたのなかに科学とは何かという批判の目が育っていきます。そうした目をもってみると、インチキを見破れるのです。
これは極端な例ですが、新聞やテレビでいろいろな人がいろいろなことを言っています。勉強をしていくうちに、それらの言葉をただ真に受けるのではなく、「これは違う」「ここをごまかしているのではないか」といった客観的に見る目が育っているのです。これはとても大切な力です。
そしてあなた自身の考えが育ってくるのです。
勉強することで、人間の知の歴史を追体験できる
中学3年の理科で学ぶことがらに天体があります。そのなかで「金星の満ち欠け」を習います。
さて、ではなぜ、この「金星の満ち欠け」を私たちは学ぶのでしょうか。
今から400年も前、自分で発明した望遠鏡を使ってこの金星の満ち欠けを観察している男がいました。彼は、金星の満ち欠けが、月の満ち欠けと違うことに気がつきます。金星の満ち欠けは月と違って、満ちているときに小さく、欠けているときに大きく見えるのです。
このことは何を意味するのでしょうか。当時、ヨーロッパでは、地球を中心にすべての惑星、恒星がまわっているとする「天動説」が信じられていました。キリスト教の「聖書」にそう書かれていたからです。
しかし、金星の満ち欠けで見られた現象は、この「天動説」を否定するものでした。太陽のまわりを地球と金星がまわっていると仮定すれば、うまく説明できるのです。
「地動説」と「天動説」を比較した『天文対話』をガリレオ・ガリレイが出版したのは1632年のことです。
ガリレイは、「聖書」の教えにそむく説を支持したとして、教会から「異端審問」の裁判にかけられ、有罪となり、『天文対話』は焚書(すべての本を焼いてしまうこと)、ガリレイは生涯にわたり自宅に閉じ込められるという罰を受けることになります。
それでも地球が動いている。
あなたが「金星の満ち欠け」について学ぶとき、生涯にわたる幽閉という犠牲を払って科学の進歩の扉を開けた、ガリレオ・ガリレイの発見と感動を追体験していることになるのです。
中学1年の数学で最初に習う「負の数」も同じです。石ころが一つとか二つとか、実際に数えられる「正の数」と違って、-2とか-3とかいった「負の数」を、人類はなかなか見つけられなかったのです。数直線という考え方で、マイナスについて視覚化したのが、17世紀のフランスの数学者、デカルトだったのです。
こうして「数」が「拡張」され、より複雑なことがらを数字で表すことができるようになっていったのです。
このように、あなたが中学で学ぶことがらは、多くの先人たちが苦難と努力と智恵と感動で切り開いてきた発見の連続なのです。
引用文献『中学生からの勉強法』(小河勝、本多敏幸、橋野篤共著 文藝春秋)